人生の大転換期
更新まで時間が空きました。
今は日本に一時帰国しています。
予想していなかった展開に驚くと同時に、あの少し前までの海外の日々は何か限界を迎えていたことが分かりました。
人は一見生ぬるいというか、大丈夫だと思う環境にいても何かの拍子にまるで冷や水でもかけられるように、ビックリ驚く展開に出会うことがあります。
今回の私も正にそんな感じで、人生の大変化を余儀なくさせられています。
色々考えていて、まだハッキリ今後の事も明確に見えるような見えないような感じです。
ただ今回の日本帰国で実感したのが、案外身近な人達との関わりで助けられ、本当に有難かったこと。その為に帰国したという位、日本の前にずっと住んでいた国でも最後に驚く程の助けがありました。その為に再び、前にいた国も捨てがたく戻る理由がある感じになっています。何という人生の不可思議なこと。
これまで見えてこなかったこと、新たに直面している人生の大きな課題。
これらはまだまだ対処中で、このブログも中間報告というよりはまだまだ序の口です。
今の所、案外気分は落ち着いていますが、これは多大な助けが色々な方向から来てくれたためです。
新たな出会い、嬉しい驚き、感謝しても足りないことが沢山あります。
人生を変えるのは自分自身だけど、周りの人達からの助けは相当大きく、それなしでは出来ないことも当然ながら沢山あるのでした。
前から進めている、「法的な勉強」も正念場なのかもしれません。
こちらは益々再び現実味を帯びて来ていて、今まで人生でどうしても解けなかった事が解けたきっかけになる知識でした。
この事は到底忘れられず、未だに人生で大きなゴールの一つです。
この話を出来るだけたくさんの人達に伝えたいと思いつつ、知らなくてもいい場合も沢山あるだろうと思うのです。
その為、何でも最終的には神の采配というのか、知識で人は救われないのかもしれません。
人が真の意味で救われるにはやっぱり愛しかないのでは、という気がしてなりません。
人生いつどうなるか分からない、だからその時々を一生懸命生きる、それに尽きます。
Intensity
かなりIntenseな日々でした。
自分なりに、という意味ですが、このIntenseという言葉は割と良く浮かぶ言葉です。
念の為、Intenseの意味はオンライン辞典できちんと調べてみました。
おそらく、この言葉もカタカナでインテンシティーなど、使われている所はあると思います。
たまにはっきり言葉の定義や意味を見て、微妙なニュアンスなど確認します。
https://eow.alc.co.jp/search?q=intensity
(英辞郎より)
intensity
名
-
強烈さ、激しさ
・One of the obvious reasons why the intensity of competition has increased is the recession. : 競争の激しさが増している明らかな理由の一つは、不況です。 -
《写真》明暗度
-
《物理》〔単位面積当たりの熱などの〕強度
-
〔色の〕明度
-
〔色の〕彩度◆【同】saturation
私個人では、Intenseというと大体、「濃い!!!」という意味合いで捉えています。
ぎっしりと中身の濃いもの、というニュアンスで捉えており、いい物だと嬉しさが増すものです。
小さな空間、密度や空気辺りに入った情報量や質が、高ければ高い程良い感じです。
色々な情報を消化しなければならず、一度に大量のダウンロードがあった感じでした。
一体なぜ?と思っても気付いた時には既に遅し、という感じでいつの間にか巻き込まれている、引こうと思っても引けない状況があるのでした。
その状況が自分でコントロールの範囲を超える場合、何かより大きな力に委ねるしかない気がしました。
とは言っても、嵐が過ぎればまた晴天になる天気と同じく、実際に気分は割と良いです。
大体、調子の良い悪いの指針として、普段よりも簡単に笑えるかがあります。
もし軽い事でも普段と違う発想で、何かおかしく笑えるとすれば、割と調子の良い日。
免疫が高いと笑うことが増えます。
自然に笑えるというのは、一番位に健康の指針ではないかと思うのでした。
それも、特に笑う理由がなくても笑えるとなると、いよいよ免疫は高い状態。
そして何か笑えることがあれば、更にそれはIntensityを増すため、そうなると今度は少し落ち着かないと、という感じになります。
つまりIntensityも高ければ高い程良いかと言えば、ある程度限界があるのと、一度に消化出来る量が限られているため、段階を経て慣れていくことが肝心でした。
人生の色々な場面で、普段はぬるま湯で安心して場合によっては多少Lazy(怠け者)になりかけ、という所、無理やりぬるま湯から引っ張り上げられるような事がありました。
それがたまに予想出来ない所で来るため、その時はちょっとビックリします。
ただその驚きが過ぎれば、またその違う状況にも落ち着いて対処でき、今度はその違う状況なり意識が自分のDefault(デフォルト)的な意識になり・・・という感じです。
うーむ、こういう内容をブログに書いても読む人、分かる人がいるのかどうか・・・と思いつつ、今日は消さないでこのまま載せてみようと思います。
たまに後から自分で読んで、内容が意味不明とか書き方が明らかにおかしい場合、直したり消してまたアップしたりします。
だから上の文章ももしかすると後で修正するかもしれません。
前は上のような内容を、沢山ブログに書いていました。
それはよくそんなに書けるね、という位でした。
ただこの所、出来るだけこのブログでもあまり意味の分からない事は書かない、比較的分かり易い文章を書こうと心掛けて来ました。
文章を書く目的の一つは、人に情報を伝えることがあるため、分かり易さは大事だと実感してきました。
思想的な内容はあまり読まれないし、実践的で実用的な内容になると、尚更しっかりと明確な言葉、分かり易い内容の説明が必要です。
この所、そのような分かり易い内容や説明の仕方、単純明快に誰が読んでも分かる内容が必要だと実感します。
このブログはその訓練的な意味もあるのでは、と思いました。
最後にIntenseというと、Intenseな日々を送るのは理想でもありました。
すると自分が選んでいることで、仕方ないと言えそうです。
ただもうあまり自分を追い詰めることなく、突き詰め過ぎず少し楽な余裕を持ちたい所。
そうでないと、もう疲労も限界に。
だから日常的に息抜きが必要で、日々自分が一番楽になれる方法を模索中です。
Point of No Return?!
少し更新を休んでいました。
人は書く時間や余裕がない時、本当に全くという程ないものです。
そんな感じでしばらく他のことに忙殺されていました。
ただ色々勉強になり、とても為になりました。
法的な勉強も続行中で、そちらは日々怠らず学んだことを出来るだけ覚えていられるように、毎日何かの形で触れて読んだりオーディオを聞いたり、書くようにしています。
その繰り返しで覚えるしかなく、最初は良く分からない文章や知らない単語が沢山あっても、そのうち段々慣れてくるのでした。
この所、対処している事が上のことも含めて複雑さを増しているせいか、夢も複雑になっています。
ハッキリと物語が掴みにくい、筋があるようでない、場面が飛んで後からすぐに忘れてしまう、という風になっており、起きてから書く夢日記も書けない程。
断片的に覚えている場面があり、そのイメージは結構鮮明なことも多いです。
ただそれがどうストーリーに繋がっているのか、5分足りともストーリーを覚えられない複雑な展開の映画みたいです。
どうも実際、まるで脳の中のコンパートメントが複雑に分かれていて、その各部屋毎に色々な物語が描かれ映し出されるような状態だからでは、と思いました。
そのような断片が完全でなくともより鮮明になるほど、それらのイメージを総合的に統合して現実に当てはめ、使える感じがします。
もしそれぞれバラバラに機能していて、各自独立して色々な方向に散らばり、まとまらないままだとそれらのイメージを統合的に使えなくなるのでは、と思いました。
良く書いているトラウマ関係のブログ記事には、ADHDやその他の精神的疾患やダメージについて触れてきました。
そのようなダメージを精神や脳が受けると、記憶の一部をどこかで切り離し、自分とは関係ないと見做す、ないものと扱うなど、とにかく直面しないことでダメージの外傷やトラウマから自分の身を守ろうとするのでは、ということです。
すると、自覚がないうちに言動にチグハグな所が出て来て、自分でも考えがまとまるようでまとまらず、ある時はまるでずっと白昼夢の中にいるような状態でボーっとしたりと、そこに自分がいてもいないような感覚になることもある、など。
ただ、良い感じでそのような外傷やトラウマの補修が進み、脳にある記憶で使えなかった部分や敢えて避けていた記憶などを、今度は自分の優位になるように使えるのでは、ということです。
すると今までの外傷はむしろ、その困難を乗り越えた記憶となり生かせるのでした。
トラウマには敢えて正面から向き合わないとしても、癒しやその他の感情解放により、自分で痛みや傷として捉えていた出来事を今度はその解放に使えること。
どうもこんなプロセスを繰り返しているらしい、と分かりました。
すると勉強がはかどり、今まで頭に入らなかった内容もスッと入って来て、頭が整理されたようになります。
そして実際にコンピューター内のフォルダー分けや部屋の整理など、物質的な面でも身の回りが整理整頓された状態に近付いてくるようです。
そして精神面だけに偏らず、身体的な面もより健全に保つ努力をすると、より健康になるようです。
もちろん、部屋の掃除や整理も同じく。
コンピューターのホルダー分けも、より詳細に内容を明確にして、複雑な内容でも細かく分類することで迷わない、探さない、探してもその時間を短くすることが出来るようになると、より効率的です。
今日はマイルドな雨で気温も低く、こんなReflectionにピッタリの日です。
この所、しばらくあまり見なかったファンタジーもの、映画や作品にも興味が出てきました。
ファンタジーは逃げだけでなく、イメージを豊かにする目的もあるのでした。
あまり時間がないため、映画全部ではなく映画紹介の動画で短くまとめたものなど、重宝して見ています。
そのうち、より本格的にもっと詳しくその世界に入りたくなったら、何かファンタジー映画を選んで観たいです。
また、音楽はアメリカのロックバンド、Kansasなども聴いています。
歌詞は割と前向きでクリスチャンの下地があるのか、聖書的な歌詞のようです。
何度か書いているように、私は特にクリスチャンではないものの、善意で信仰している人達が結構周りにいるのでした。
これは英語圏だから仕方ないのもあると思います。
共感する内容もあり、Kansasの音楽でも例えばこのタイトル、
“Point of Know Return”
など絶妙です。
Point of NO Returnの意味を含み、『後に引けない段階』
今の私はそんな感じです。
気分はほぼリゾート
こちらの気候はまだ多少肌寒いものの、晴れが続いてとても気持ち良い天気です。
こうなると毎朝出来るだけ太陽の日を見ること、そして外を歩くことを続けたくなります。

毎日歩いていますが、歩くのも益々楽になってきました。
前にも書いた通り、歩く事を増やしていくと体が段々軽くなり、益々歩くのが楽になるという好循環に。
そして身体的によりアクティブになれると、気持ちも元気になってくるため、外にいる時間が長くなります。
こうして書く時間を確保するようにしているのは、自分の思考をまとめるためですが、実際に書くことも欠かせません。
それは益々書くことの実益も実感してきた為です。
マイナーな変化ですが、プロフィールの内容を変えました。
思うと、このブログを始めた頃はまだまだ相当なトラウマに囚われていました。
そのことを書くにつれ、段々書くのも平気になって来たので、プロフィールの内容もそろそろ変えていいと思いました。
プロフィールにはオンラインで始めた勉強のことが書いてあります。
そのコースはかなり自分に必要な情報でした。
その為、前からずっと気になっていました。
にも関わらず申し込みが遅れたのは、色々迷っていたせいもありました。
実際に申し込み、内容を読み納得しています。
色々前から書いている、法的なディフェンスについて。
より基本的なこと、ディフェンスを強化するためにという趣旨です。
日本でももちろん法的なことは知っていると有利なのは間違いありません。
私の場合、あまりに知らな過ぎた為、相当な不便を強いられたり損してきたと分かりました。
そして今後の守りの為にも勉強をすることにしました。
考え方から守りに入る、それもほとんど手付かずだった部分、今までグレーゾーンで何となく対処してきたこと、そういうことを改めて知る機会です。
意識は自分が読み書きしたことを現実として認識するので、自分が知らなかったことで有利になる情報を出来るだけ取り入れるには、読んだことを書いてアウトプットが一番だというのは良く知られています。
もう時代は既に変わって来ており、これからは深層意識から幸せで表向きの評判や肩書は関係なくなる、というのは感じていました。
その通り、人は何を持っていても誰といても、何より自分自身が心から幸せを感じていないと何をしても満たされません。
気持ちが空っぽな程、辛いことはないので、表のこともある程度はケアしてもまずは中から来る、そのことを実感してきました。
そこでメンタルのケアが欠かせません。
元々、リゾートでも南の島でもそういった心の問題はある、そのことは聞いていました。
実際その通りだと思います。
今の土地もそうですが、南の島や暖かい土地にはホームレス問題もよくあり、リゾートは発展途上国にあることが多く、現地の人達の生活は決して楽ではないと言います。
そのような問題を見ていたらキリがないのは確かでも、全く無関心ではいられません。
自分自身も色々と金銭問題や仕事のことで悩んで来たので、人生が一時的または長い間上手くいかない、という状態は良く分かります。
この人生で一体何を選び、何を自分のベストな機会に転換できるかで自分の人生の満足度も決まるのでは、と思っています。
他の人達から見て、全て絶対的な安全パイを持っている、という風に見える人達もたまにはいます。
そのような場合でも、人生は長い目で見ると何があるか分からず、誰もその人の深い内面の奥まで知る事はほとんどありません。
人と余程深く知り合い、長い間寄り添って過ごさないとある人の人生はその人にしか分からないと思うのでした。
すると、誰から見ても安全圏にいる人など極稀か、居たとしてもソーシャルメディアや一般的なメディアには出てこないのでは、とも思うのでした。
ただもしかすると、その事も今後の世界で変わってくるか、変わってきている気もしなくもありません。
私自身はどちらかというと、究極の楽天的人生を目指しており、むしろ一切の苦しみも悩みもない方がいい、そう本音では信じています。
だけどそういう感じでいると、今度はポジティブ過ぎる、そんな夢みたいな天国みたいな話はこの世にない、そう一喝されてしまうこともありました。
するとこちらは多少反省して顧みて、そうだよね、その通りだと思う、これだけ世の中に苦しんでいる人、戦争がまだ激しい土地もあるのに、と思うのでした。
それでも、自分がもし戦地にいて必死で生きるのも大変な位だと、助けられるとしても限度がありより大変な窮地にどちらも陥ってしまうこともあります。
すると1人は完全な安全圏にいて、高い所から助けの手を差し伸べる、絶対的に安全な土地だからこそ出来る措置もあるのでは、と思うのでした。
そのため、どちらかと言うと今後の未来はそういう事が可能になる世の中だといいな、というのが本音です。
そうすれば誰も傷つかず誰も最終的には困難や酷い死など、とにかく過剰な苦しみはなくなります。
誰かがどこかで助けてくれる、まるで雲の上のジャックと豆の木みたいな話が可能になれば、ということです。
それが可能なら実はそれが一番いいと思っており、必ず酷い困難がありそれを乗り越えてこそ幸せ、という図式はもうそろそろいい、手放して人類全体がもっと楽になっていいのでは、と思うのです。
そうでないと、いくら栄光を極めても必ず最後は全て失うとか、一番素晴らしい素質があって才能を発揮していたのに嘘みたいにそれがある時になくなる、という事がなくなります。
実は成功してもそういうことがあると、と思うとどこか怖い気がしてなりませんでした。
先日のブログにも書きましたが、私が比較的好きだったアーティストやミュージシャンはそういう人達が結構おり、その作品にも現れているからです。
そのような作品や人達に共感すると同時に、その人達の見てきた世界は決して華やかな栄光だけではないこと、酷いトラウマや恐れに対処した結果のアートだったことが分かりました。
それは普通の苦悩ではなく、だからこそ芸術に昇華出来たのは奇跡みたいなことです。
ただその奇跡に至るまでの苦悩や苦痛、これらを味わうのは到底普通は不可能な位。
そして実際に成功を達成したとしても、後からまたそのトラウマに飲み込まれ・・・というアーティストやミュージシャンが多いこと。
そのため、どこかでずっとそういう人達が実は生きていればとか、もうこの世の仕組みとして、成功と挫折の永遠の繰り返しよりも、折角の素晴らしい才能はそのまま生きる、となればいいのにと心から思っていました。
最近はAIで亡くなった歌手が誰かのカバーをしている、などというビデオもあります。
ただ私の思っているのとは多少違います。
あくまでもそれはAIであって、本人ではない以上、何かが違うのでした。
そのため、AIではなく本当に本人かそれに近い形でそのまま才能が維持される、そういう事が可能になる世界になればいいなと思うのです。
そのため、根源的にもうそこから変わってしまえば、と願わずにいられません。
未来はそういう所であって欲しいです。
今までずっと歴史的に繰り返して来た、成功と失敗、そして栄光と挫折、その永遠の繰り返しはもういいのでは、と思ってしまいます。
地球全体が天国になれば、何も恐れず失敗してもやり直しが効く、そして必ずどこかで上手く行きみんな幸せになれるしそれを妨げられることもなくなる、そう信じています。
アダルトチルドレン、共依存の問題
5月に入りました。
大分天気の良い日が増えて、これから最高の季節です。
ビーチには毎年恒例のアイスクリームトラックが来ました。
このアイスクリームはとても美味しく、毎年誘惑に負けて何度か食べてしまいます。

この所、日が長くなってきているので安心して少し遅くても出掛けられ、外で行動出来る時間が増えました。
どちらかと言うと未だに夜型の私は、出掛けるまでに家で色々好きなことややらなければいけない事をして、それから出掛けることが多いです。
すると結構遅くなってしまうこともよくあります。
こちらの夏は10時位まで明るくなり、最近だと8時位までは明るいです。
この季節が一番好きというか、その為にこの街に住んでいる、そういっても過言ではない位です。
とはいえ、日常で上手く回らない場合、季節は関係なく自分のメンタルの調子を整えるのが優先です。
この所、ヒーリングフェアと焚火の後により自分の深い問題も再浮上してきて、共依存やケアラー、アダルトチルドレンと呼ばれる症状に近いものも明確になってきました。
完璧な親はおらず、みんな大体試行錯誤なため、自分の親としてのやり方や子育てに自信がもてない両親は多いとのことです。
この事がちょうど、私がしばらく実行しているセラピーでも浮上しており、シンクロニシティ、自身の内面が表に出ることを実感しています。
元々セラピーで対処してきた感情に近く、内容はかなり共感し、理解できるものでした。
息苦しさの原因に、この共依存とケアラーとして育った、アダルトチルドレンの問題があるとのことで、Youtuber達で最近発見した心理セラピストやカウンセラー達の話を色々聞いてみました。
数々の関連動画を見ると、この問題は多くの人が度合いの差、症状のシビアさは様々ながら何かしら当てはまるのでは、と思ったりしました。
もちろん、中にはそんな問題とは一切関係ない位に見える、健全かつ幸せを絵に描いたような家庭もあるとは思います。
大体、そういう状態の時は心理やメンタルの問題はほとんど関心がなく、その他のことで一杯で気にしていないことも多いと思います。
課題は一時的ではなく、出来るだけ長くその状態を保つこと。
誰でも人生問題なくストレスも関係ない、人間関係も全て順調で円満に楽しく過ごせれば一番です。
ただ何かの出来事やバランスを崩す、そういう時にいかに素早く問題を解決してバランスを取り戻せるかが肝心なのでした。
共依存が問題になる場合、相手の問題にどちらか又は一方が肩入れし過ぎて相互に問題を大きくしてしまう、一緒にいると建設的な方向ではなく問題に目が向き、そこから発想や気持ちが抜け出せないと、折角の付き合いが苦しく耐えがたいものになってしまうのでした。
一番親しい家族だからこそ共依存を避け、心身共に適度な距離を保ちお互いの独立性を守る、過度に干渉せず、相手を信じてしたいようにさせてあげることが可能です。
この相手のバランス、バウンダリーを侵害してしまうと、相手の自分で出来ることを先にやってしまう、相手の代わりに自分が問題を解決しようとしてしまうなど、結果として相手の能力を引き出せない、その事が分かってきました。
すると相手に自分の決断を頼り、相手次第で決める、相手のご機嫌をいつも伺うなど、主体性のない、どこか自分でいるようで自分でない感覚に苛まれます。
結果として、そのような関係にあるとどうしても居心地が悪く、最大限発揮できるはずの自分自身の能力を相手に委ね、どうにもならない無力感に至るのも分かるのでした。
こういった関係にあると、主体的な指示をする側、リードする側が何でもされる方の選択や決断にまで口を出し、その相手が自立しようとすればそれを止める位の所まで行くのも時間の問題に。
すると当初、リードする相手の強さや決断力、行動力などに感謝をしても、やがて自分自身で何も出来ないことによる無力感や虚無感など、どうしても否定できない違和感を感じることに。
そして最初は上手く行っていた関係、頼り頼られる関係でバランスが取れていたはずなのに歪みが生じ、やがて関係は均衡を保てずに壊れるのでした。
良い関係はやはり基本的に対等、そして相手に頼るのも頼るのもバランスが取れている、そのことで均衡が取れるのですね。
バランスが崩れた場合、一旦その関係を切り離し、自分で全て決める自由と意思を取り戻す時間をたっぷり取り、自主性と自由の感覚を充分味わうことが必要そうです。
このような事が大体、セラピーやYoutubeの動画などでも語られていたことでした。
セラピーでは相手は1人ではなく他者でも多数、複数の団体など、色々な『リードする側』、『リードされる側』が出てきました。
その中でも自分の立ち位置や自分軸を保つには、というテーマが数々と繰り広げられてきました。
個人間では問題なくても、団体や特定のグループ、複数の人達との関わりにおける自分自身の考え、そして態度に出る感情などを取り扱ってきて、今に至ります。
人生のありとあらゆる場面や人々との関係において、ブレない自己、自分軸を常に保つのは容易ではありません。
かと言って、いつも自分の馴染みある範囲だけ、全くリスクを冒さないでその範囲から出ない、このやり方もどこかで何か物足りなさや自分の限界が見え隠れします。
すると、その枠から出ざるを得なくなります。
というのは私のパターンですが、他の方でも当てはまる事はあると思います。
人や周りを優先し過ぎず、かつ自分自身の本来の願望や心からの欲求、夢を叶えるには、絶妙なバランス感覚が必要だと分かりました。
何か欠けているとしても、完璧を目指そうとするとそれも自分自身を追い詰め、引き籠りや自分がいつまでもダメ、そんな感覚に苛まれてしまいます。
そのため、完璧思考ではなく、ある程度の所まで出来れば今日は上出来、その位に自分を許すことも大切だと分かってきました。
完璧思考にはかなり苦しめられ、私自身はいつまでも出掛けられないことが良くありました。
それは考えすぎによるのもあり、ずっと色々な考えを深め過ぎているうち、何もかも充分でない気がしてしまう事が沢山あった為です。
自分自身の殻に籠り考えすぎると、いくら時間があっても足りないばかりか、他の人達でも神様ではない完璧な人達のことまで誰も受け入れられない、となる恐れもあります。
すると世間全体に関わるのすら面倒、そのぐらいの状態にすらなるのでした。
それは行き過ぎなので、どこかで線を引きこれで不十分なりにも充分、と受け入れることも学びました。
毎日、実践する機会が与えられます。
他の人達とのちょっとしたやり取りで、自分の状態がより分かり易くなるため、人との関わりは自然と必要に応じて出て来ます。
ケアラーやアダルトチルドレンは親の気持ちが良く分かるため、自信のなさも不完全さも子供は鋭く見抜いてしまうのですね。
自然と一番愛する親の事をかばってあげる、親が傷つかないようにとの配慮で自分が親を守ってあげないと、とケアラーやアダルトチルドレンになってしまうのも分かります。
このシビアなケースだと非常に辛いケースもあり、心が張り裂ける程、一体どうやって生きて来たのかと言うほど大変なこともあります。
そういう問題に特化したグループや自助団体、同じような問題を抱えてアダルトチルドレンやケアラーとして子供時代を過ごした方達の繋がりも今は大分あり、探せば癒しの機会は誰でもあるのが救いです。
自分の問題で同じ位の辛さを体験した人にしか、自分の体験した事は到底分かってもらえない、そう思うのは自然の心理だと思います。
どうしてもその他の自分とは全く違う世界で生きてきた人達、一見何も屈託ない問題ない家庭で育った人達とは、何かどうしても違う感覚があっても不思議ではないのでした。
自分の問題を実は分かっているようでいて分かっていない、決して分かってくれない、そういう人には自分の深刻な悩みは話したくない、話しても仕方ないと思ってしまいます。
そのため、似たような問題で悩んだ人達の存在は心強い味方になり、先に書いた共依存の問題を解決できれば素晴らしい関係になる可能性があります。
私自身、共依存に近いというかほとんどそのもの、という関係を色々と経て来ました。
そして自分の問題だけでなく、相手の問題も深刻に自分自身の問題として、完全にほとんど気持ちに同化していました。
実は相当深刻だったと分かり、共依存やアダルトチルドレン、ケアラーとして育った子供の問題も、実はほとんど自分自身の問題に近いかそのものになっていたようです。
また、私自身の育った家庭も問題の形は違ってもかなりシビアな方だったため、そのような相手とは共感の度合いが強くありました。
この理解で相手を完全に許せないとしても、そこまでシビアだったなら仕方ない、と許容範囲が広がりました。
この感覚は今まで何度も浮上し、その都度その相手の経てきた恐ろしい程の体験、感情を理解するに至りました。
その都度、真剣に一体どのように生き抜いてきたのかと、驚くほどです。
ただそのためにある種の耐久性がなければ生きられなかった、それが強さに繋がったのも分かりました(文字通り、痛い程!)。
自分がまさかそこまでシビアな気持ち、感情に対処する日が来るとは・・・という感じでした。
ただ長い人生、色々な局面があるため、大きな波を経験するのも一つの経験だった、そう冷静に受け止められます。
人生は大いなる冒険で、まだ色々な未知の領域、これまでやってみたいと密かに思っていたにも関わらず自分で制限していたことなど、山ほどあります。
そのため、こうした傷が癒されると、今度はまた多少のリスクがあっても一歩踏み出そう、という気になってきます。
自分で感情の処理が進むととても快適になり、気分も楽に軽くなります。
そして、今日の癒しのキーワードは、
『Do what you wanna do again』
(どこかで聞いたような言葉?!)
これに集約されます。
というのも、先の主体性がなくなった人、自分が何を望んでいるのか感情も良く分からない程、相手に合わせ過ぎて自分が無感覚になっている場合。
まさに、
『Do what you wanna do again』
こそが鍵!という位だからでした。
これが身体の健康まで握っているとは、ですがその通りだと実感します。
まだまだ晴天なので、これから出掛けて来ます。
海辺の焚火とヒーリング 4月
先日「予告」した通り、地元で開催されたヒーリングフェアと海辺の焚火に行ってきました。
このヒーリングフェアと海辺の焚火の会については、これまで何度か書いてきた通り、恒例になっています。
毎回、参加して良かったという感想で締めくくるこの会。
今回もたっぷりの癒しと暖かい火に包まれた日になりました。

写真は通常焚火をするビーチです。
昨日も晴れていて、とても気持ちの良い天候。
焚火を始めるのは少し日が暮れて気温が下がって来る頃。

当日、焚火の会の前に開催されていたヒーリングフェアからスタートしました。
焚火の会、ヒーリングフェアと共に同じ主催者です。
そのため、今回は同じ日に2つのイベントとなりました。
参加メンバーはその都度、多少変わっていますがお馴染みの人達も何人か毎回いらっしゃいます。
今回も前回と同じく、自然が豊かな住宅街にある一軒家が会場でした。
こちらの会場に辿り着くまで、交通機関で行くと丁度緑の豊かな公園や近隣の樹々に囲まれた道路を歩いて行くので、それもかなり良い運動と森林浴になります。
この所、出来るだけ歩数を増やそうとしている私にはピッタリでした。
大体、最後のバス停から降りて歩くこと約20分程度です。
ヒーリングフェアは私が着いた頃は既に始まっていて、やや遅い到着でした。
ただ同じ日に焚火があることも分かっていたので、今回は丁度良い時間帯でした。
色々なヒーラー達がそれぞれデバイスやヒーリング方法を提示していて、私はEMF(Electric Magnetic Field)を調和させることで、様々なリラックス効果や感情の癒しになるというマシーンを試してみました。
何となく気分が落ち着く、足元から温まる感じで気分がまた穏やかになりました。
家の裏庭は、太陽が降り注ぐ中、他の参加者やゲスト達が談笑したりしていて、とても綺麗な緑が映える光景でした。
その辺の住宅街も庭や家がとても素敵で、環境が良く居心地の良いスペースです。
その家には大きな茶トラ柄の猫もいて、癒しに輪を掛けていました。
もう大きく結構高齢の猫らしいですが、とても可愛らしい微妙な色合いの猫でした。
その家と非常にマッチしていて、その光景はまるで『不思議の国のアリス』のようでした。
途中、何人かのプレゼンテーションやセミナーも入るのですが、自由参加です。
私は来場していた何人かと会話をして、また色々なヒントを沢山貰いました。
その時、展示の一つで見つけたCopper(銅)の輪っかを購入。
このCopperもEMF(Electric Magnetic Field)を中和し、穏やかで調和ある振動に変えるとのことです。
前からCopperの効果は見聞きしていたのと、メタル自体の価値も上がると見込まれているのもあり買うつもりのアイテムでした。
Copperの健康作用は色々な所で語られていますが、特定の症状や血液中の成分が過剰、過少などによって多少作用にばらつきがあるようです。
ただCopperを経口摂取するのではなく、体に身に着ける分にはほとんど心配なさそうでむしろ良い効果ばかりの様子。

そのため、安心して身に着けられます。
この輪っかは他のゲストがネックレスとして身に着けていたのを見て、私も同じ位の大きさでネックレスとして使える物を購入しました。
購入してから身に着けていますが、気のせいか実際に気分が落ち着く気がします。
そこで更に会場に来ていた参加者と、思わぬ法的な手続きについて話が展開しました。
かなり詳しくその事を知っていた人だったので、こちらもすっかり励まされました。
この話題は他にあまり知っている人がいなかったり、そこまで追及する人が少ないとつい挫けてしまう話題の一つです。
簡単でないのはもちろん(それ程簡単なら、既に誰もが実践している)、他に知っている人が滅多にいないことでもあり、こうして知っている人に会うととても元気付けられます。
みんなにとっての現実や信じていることが私と異なるのは仕方ないので、どれだけ細かい部分まで理解してもらえるか、または共通の認識があるかが大切です。
このような機会に色々な人達と接する度、人によっての信念や現実を捻じ曲げるのではなく、ある程度尊重し自分との違いを見出すことが一番だと思いました。
ヒーリングフェアを一足先に出てから、次の海辺の焚火へと移動することにしました。
またそこで散歩をすることが出来ました。
海辺には既にヒーリングフェアに来ていた人達や、そこには居なかったけれど焚火には参加する人達などがいました。
この焚火を囲む会は実際、火と海で心からリラックスして癒されます。
この海を見ながら、時々波の音を聴いたりしていると話す必要も感じない位落ち着きます。
そのような感じで数時間、段々そこに現れる参加者達と火を囲み色々な話をします。
ファイアマスターのような焚火を重点的に見てくれる人も、自然に出てきます。
ヒーリングフェアは予定よりも4時間程押したようで、そちらの参加者達はそれだけ遅れて来ました。
その日も色々と話が弾み、癒し的な話題、自分が体験して大変だったことやその癒し、感情的に困難な部分も受け入れることなど、こちらも必要としている話題でした。
特に人が自分の感じていることや考えを否定して、自分が変わっているとダメだと否定してしまう、自己否定して自分の信じていることを信じられなくなるなど、私にとっては常に自問自答するテーマでもあります。
人がユニークな個として生きるには、誰からも受け入れられるのは不可能。
だけどある程度は社会で受け入れられないと生きていけない。
人と交流して自分の考えを少し調整する、コミュニケーションの方法を学ぶことは大切です。
この所、大人の自閉症も増えているといいます。
ただ思い切って人と関わるだけ、そして自分の主張はしたい事はしても全て受け入れられなくてもよい、その振り切りも必要だと思います。
それというのも、私自身が他人の思考体系や全てを無条件に受け入れられるかといえば、それは不可能に近いためでした。
もし自分自身だって相手の中で何か違和感がある部分もあり、違いがあるのが当然だとしたら、それはそのまま放っておくしかありません。
みんなが違うからイキイキして、個人がユニークな個人としていられるため、誰かを自分の枠に嵌めることはあり得ません。
人も自分も自由でいるには、違った発想でも突き放してみること。
ただ、もしその中で絶対的な譲れない点があるとしたら、誰の考えでも人に危害を与えないこと、他人の権利を奪ったり相手を意図的に傷つけない、などはあると思います。
そのようなガイドラインがあると、人と関わるのもそれ程恐れはなくなります。
自閉的になる場合、相手との接触をとにかく恐れて絶ってしまうこともあると思います。
思い込みにより、相手や周りは敵、そう見做してしまうと自閉的になる危険性があります。
ただそれ自体も実は錯覚で、思い切って出てみたら分かってくれる人達もいた、世間は広いので自分の変わった考えも既に受け入れられて実践している人達がいるなど、分かって面白いです。
人と話すと、自分自身に抱いていた考えも錯覚、または勘違いだったと分かることがあると、前にブログにも書きました。
その通り、自分は何か「こうだ、こうに違いない!」と頑なに信じている場合、どうしてもその考えに知らない間に固執したりします。
そしてその枠から出られず、「こうに違いない」が勘違いのことも気が付かずに過ぎてしまいます。
ただもしその枠が実は違っていたら・・・というのが、他人との会話を通して垣間見える部分です。
例えば今回、私は他の参加者の方で既に何年か知り合って経つ方から、意外なことを言われました。
それは私自身、ずっと他人に合わせる傾向があって角が立たないように、と必死で守って来たつもりだったこと。
そのことを、あっさりいい意味で否定された形になりました。
というと、いいのか悪いのか分かりませんが。
自分自身では相当ソフトだと思っていたのに、その参加者からすると私は「バリバリに尖っている」様子だったとのこと。
だから自分自身で思い込んでいた、「こんなに人に合わせているのに、誰も分かってくれない」というのは実は、合わせているようで合わせていなかったのでは、と思えてきました。
もちろん合わせすぎてもダメなので、その加減が難しいことは何度か書きました。
特に私の場合、割と追及しているテーマが特殊なのもあり、この部分では譲れないところが大きいです。
するとそれは出る所では出ていたと、改めて知ることになりました。
この事を指摘してくれた方は、それでもいいと容認してくれた形です。
このことがとても安心する要素になりました。
こんな風に、人は何か他の人よりもどこか決定的に違っている部分、他人から見てそれが明らかな場合、それが何かいけないことのように思うことも多々あります。
ただそれはある人にとっては事実としても、ある人にとっては事実ではなくなること。
ある人はそれがToo much(行き過ぎ、やり過ぎ)に捉える、だけどある人は全然そんなことない、その位大したことないし平気と捉える。
などなど。
この認識の差です。
いつも自分が接する人達とは違う人達と接する利点で、それまでの人達には受け入れられないことが他では受け入れられるかもしれないこと。
今回のヒーリングフェアと焚火では、出会った人達がまた更にパワーアップしてより自由な感覚を身に着けていた感じがしました。
とても豊かな発想と行動力に、こちらも大いに励まされました。
全く寒くなかったので、曇り空の今日も気分は晴れです。
現実化には、不言実行が大事?
ここしばらく、風邪やら何やらで調整めいた日々が続きました。
体調は本格的に戻りました。
デトックス反応で不要なものが多少出て行った感じがします。
風邪を引いたのが久しぶりだったので、実は結構大きいような気もします。
まだその全容が分かり切っていないので、これからこの意味も分かるかもしれません。
何かまた次の動きに向かって、自分自身の心身も調整しているようすです。
考え方が変わるので、次の行動へのヒントもまた別のアイディアが浮かんだりします。
振り返ると徐々にあまり変われない自分になっていて、また動きが多少マンネリ化してきた気がしました。
つまり大体出かける所が同じ、歩くコースが同じという感じです。
それを続けていると段々飽きて来るので、そろそろ何かまた別の動きが必要なのでした。
そういうタイミングか、明日はまたヒーラーフェアや海辺の焚火の会があるので行く予定です。
この会では、毎回誰かに会い話をしたりすると先のヒントになったり、今までの考えを覆されることもあるため、今回行く必要性をより感じています。
それと言うのは、これからまた今年以内に少し大きな動きが必要そうだからです。
その気合いを入れるためにも、何か少し大きな行動をする人に会うとこちらもよりインスピレーションがもらえる気がするのでした。
これは他の方でも、もし何か大きな動きをしようとかしたい場合、お勧めの方法です。
つまり何となく気が付いて来たのは、自分がもし何か変化を必要としている場合、同じようなレベルで変化が必要な人に会うことで、それに共振しやすくなること。
すると、自分自身も同じ位の変化を起こせる勢いに拍車がかかり、いつの間にか出来てしまうことがあるようです。
ただもし周りに安定して変化をしたくない、そういう人達が多い場合、自分自身もそれに共振すると何となく動く気がしない、ということがあってもおかしくありません。
そのため、何か変化をどうしても起こしたい、けれど行動に移せない場合、一番自分の身近な周りを見て果たしてその人達が変化しようとしているか、何か積極的に行動しているかを見てみると何か分かるかもしれません。
これは良い、悪いの問題ではなく、単に人は環境に馴染みやすいことから、周囲の人達と似たような行動を取る傾向があるため。
つまり変化を例に取る場合、もし自分が今安定していてどちらかと言うと動きたくない、そういう人達と中心にいる場合、自分自身だけで大きく動くのは相当の勢いが必要なのでは、と思うのでした。
もちろん、いつでも自分次第なので何だって自分で決めて行動すればいいこと。
ただ人は環境に馴染み合わせる傾向が強いのもあり、いつの間にか影響されてつい自分も、と特に無意識でも知らない間にそうなってしまうこともあるのでした。
と書いているのは、私自身何となくそれが思い当たるからです。
ただこうして自覚すれば、自分でそれを変えようと敢えてより行動している人に会おうとする、自分で行動範囲を広げて何か新しい物事を始めてみることも出来ます。
何であれ、無意識でいつの間にかそうなっていると、つい何かやろうとしても先延ばしになり、いつの間にかやらないで終わってしまった・・・という事にもなりかねません。
自分で意識していないのが無意識の行動なので、表向きには何か自分がしたいことがあっても現実に行動出来ない、しない場合は無意識に何らかのブレーキや制限がかかっているといいます。
と書いていて、また変化を起こすために引っ越しも考えていた事を思い出しました。
そしてそろそろ引っ越しもいいのかもしれない、と思います。
今の住まいに引っ越してきたのは日本からですが、既に2年半も経ちました。
驚くばかりです。
今年は大きく動く予定と書いたのですが、引っ越しよりもっと遠い距離でも動く可能性はあります。
今まで、何となくずっと動きたいのに動けなかった気がしていたのが、急にまた動きたくなって来ました。
私が動きたくない場合、色々理由はあり、一つは恐れもあります。
動きたくない、そう思う理由の背後には恐れがあり、何か行動することで失敗するのでは、とか後悔するのでは、と思うと行動したくなくなること。
それに加え、不安もあります。
不安も恐れと大体セットで、何か未知の物事や未来に対する不安、そして行動して変化する事への不安など。
これらが足止めをするのに充分な理由となります。
そこで、恐れを知らず、まるで不安などないかのように行動する人がいると、その行動を見るだけで元気づけられることがあるのでした。
そして自分も恐れずに行動しよう、不安なんて考えたらきりがなく何だって出てくるのだから、もう考えすぎないでとにかく動こうなどと考えが変わってきます。
こうして、恐れも不安もある程度克服し、新たな行動に移れるのでした。
と言う風に、またすっかり動きたいムードになって来ており、その気持ちの方が恐れや不安を上回って来ています。
大分エンジンがかかるのが遅く、マイナーな行動修正で今年も動いていました。
だけどそろそろもっと大きく動かないと、と必要に迫られるのもあり、仕方ない感じです。
私はたまに、自分がこうして必要に迫られないとしない、その傾向が何でもあるため、必要に迫られるのでは、と思うことがあります。
いつもよく、必死になるのは嫌、必要に迫られてやるのではなく、自分で余裕を持って選んだという実感や確信を抱いてから自信を持って行動したい、選びたいと思うのです。
それが何となくいつもどこか必要に迫られて、となる気がします。
だから本当はそろそろ、もう先を見て悠々と自分でハッキリ自信と確信を持ち、『いつまでにこれをする!』と掲げげその通りに出来ればと思うのでした。
おそらく、自分でいつも先に決めないからそのようにならず、いつも必要に迫られる気がするのでしょう。
時間は待ってはくれません。
すると否応なく対応しなければ、という段階にいずれは達するのでした。
だから先に決めろっていったのに!と言っても後の祭りです。
こうして自覚してそれを変えていけば、先に決めて自分でより確信と自信を持っていられる、そんな事も可能なはず。
今日は珍しく、今まで書かなかったヒーラーズフェアや焚火の会が事前にあることを書きました。
そして参加する予定と書いたのは、同じ街で実施されるし、行かない理由がないのだからその位は行こうとの意思です。
この位のことだったら、そこまで躊躇しないでも決めて実行は出来るはず。
他のことでより未知の話や、もっと大きく距離を動く話や責任ある仕事など、そうなるとよりハードルも高くなります。
すると書いても実現しないと嫌なのと、そういう事は書くと実現しない気がすることもあり、特に公開するブログのような所には書かない傾向です。
私だけなのか分かりません。
先のヒーラーフェアや海辺の焚火は、余程何か急な用事などが入って変更にならない限り、その予定通りだと読めます。
しかし他のことにかけて、まだ確定しないことを先に公開して書いたりすると、それが現実にならない気がする・・・のは私だけなのかどうか。
こういうのは、自分自身のジンクスみたいな所もあるのかもしれません。
何はともあれ、ここしばらくは風邪もありやや内省的な日々でした。
それ程、人にも会わないで過ぎたので、余計内省的な内容になっています。
こんな感じで、少し籠り傾向(外には毎日出掛けてはいても)になると、今度はまたその反動で色々な人達と話したくなるのでした。
その機会もありそうで良かったです。